普通の人になろうとするのやめませんか?
初めまして、ぼっちです。
さて、皆さん普通の人になりたいと思ったことはありますか?
僕は3年程前までずっとそう考えながら生きてきました。
ですが、高校進学にあたりその価値観を捨てました。
この記事では僕がなぜ普通の人になりたいと思ったのか、なぜその価値観を捨てたのか、この二点をとうして普通の人になろうとすることの虚しさと悲しさを語って行ければと思います。
なぜ僕が普通の人になりたいと思ったのか
デジタル大辞泉より
ふ‐つう【普通】
[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
普通の幸せという言葉を言い換えて見ると、と当たり前の幸せとなります。
普通の人になりたいという価値観はこの言葉を聞いてすぐの段階で形成されました。
当たり前の言動や考えをしていれば、幸せになるのは当たり前といったように考えていたんですね。
この価値観は耳障りが良く、世の中にもかなり広まっている価値観じゃないだろうかと感じています。
しかしこの普通という価値観には思わぬ落とし穴があります。
なぜ僕はこの価値観を捨てたのか
普通の幸せに憧れていた僕は普通の人になるための行動をとります。
僕は考えつきます。
自分は普通になりたい人だから普通じゃない 。
だったらどうすれば普通の人になれるのかと。
結果僕は他人の模倣をすることによって普通の人になろうとしました。
具体例を挙げると
- 声のトーン
- ワードチョイス
- 話のペース
- 価値観
- ファッション etc.…
親、兄弟、友達、他人、ドラマ、アニメ…
僕は様々な人の普通を備えていきます。
そうしていくうちに友達の数や何処かへ出掛けたりする回数も急激に増え、僕は一般的な成功をおさめたのです。
しかし、この時の私は常に満たされないような感覚と、漠然とした不安に苦しめられていました。
では、なぜ僕はそのような状態になってしまったのでしょうか。
その背景にはさきほど触れた普通という価値観の思わぬ落とし穴があるのです。
普通の人という言葉は、当たり前の人とい言い換えることが出来ます。
人として当たり前のことや考えが出来る人と言い換えることも可能かもしれません。
では反対に普通ではない人。
この言葉を言い換えて見るとこうなります。
当たり前じゃない人、もう少し分かりやすくすると、人として当たり前じゃない言動や考えをする人となります。
では人として当たり前の言動や思考とはどんなものかと言われるとその定義はかなり曖昧です。
普通の人とは、そんな曖昧な定義の言葉に、自分の言動や思考や感情を意識せずにマッチングさせ、自分の考えが常識から逸脱してないか?とはただの一度も思考せず、周囲の人間に一度も普通以外の評価を受けない人間のことです。
そんな人間は存在しませんし、存在したとしても狂人として分類されることでしょう。
それにも関わらず普通の幸せという言葉には、人として当たり前の言動や考えをする人には普通の幸せはこないという意味が隠されています。
今ならわかります。
僕が常に不安を感じていたのは自分を出さずに誰かの模倣をして成功体験をしたことにより、素の自分が普通の人でないと証明してしまい、さらにそのことが周囲に露見することによって、築き上げたものが無くなってしまうのではないかということを無意識下で感じていたからだと。
今ならわかります。
僕が常に満たされなかったのは、普通の幸せなんていう言葉を盲信して、自分が求める幸せを信じるどころか無視していたからだと。
こうして僕は普通の人になって普通の幸せ求めることをやめました。
最後に
普通の人の普通の幸せは、普通の人間が事実上存在しないため実在しません。
僕は今いつの間にか見失っていた自分の幸せを迷走しながら模索しています。
もしも、普通になろうとする貴方が、普通なれない苦しさを感じているのならば
もしも、普通になろうとする貴方が、漠然とした虚しさを感じているのならば
普通の人になろうとするのやめませんか?